現代のソックホップは、広々とした郊外にあるママとパパの、心地のいいレクリエーション・ルームで行われる。
お目付け役がいたとしても、彼らは子どもに嫌われないようにと、何でも言いなりになってしまう。
また、これはどこかの団体主催のパーティでも同じことだが、このレクリエーション・ルーム・パーティには、もはや男性と女性を分ける境界線は、何一つ存在しなくなった。
すでに、幼いうちから社交性を身につけ、モジモジする子はまずいない。
なかにはお互いの間にルールをつくる子どももいるが、ほとんどがなんのルールもなしに、セックスの探求をはじめる。
それに、多少の不安は、パーティがはじまる前にひっかけたビールやクスリで、すっかり感じなくなっているし、たとえまだ不安が残っていたとしても、すごいボリュームの音楽がそれを吹き飛ばしてくれる。
たいていの男の子は男同士で固まってポケットに手を突っ込んだり、自慢話で時間をかせいでいるふうであるが、調子のいい子はさっさと女の子に近づき、ご機嫌うかがいをはじめる。
拒否されるかもしれないという内心の恐れは、昔ながらのマッチョのシナリオを演じることで、なんとかしてしまう。
ところがピーターパン人間は、すぐに居たたまれなくなって、もう少しクスリをやったり、ビールを飲んだりして元気をつけようとする。
しまいにはひとりぼっちのみじめな気持ちになり、すごすご家に帰ってしまう。
一方、女の子たちだが、大胆に男の子に迫り、獲物を少しでも増やそうとする。
それが女の子の新しい役割なのだ。
グループの中のいちばんセクシィな男の子を見つけ、「二人でいいことをしましょう」とか、ひとりぼっちの男の子に、「いじけちゃって可愛いわ」などと言うものだから、男の子たちはますますめげてしまう。
本当のところ、女の子だって、好きで大胆に振る舞っているわけではないはずだ。
多くの女の子には、「スーパー・ウーマンにならなきゃ」という圧力がかかっている。
そこで自分の考えも感情も、すべて思い通りにしなくては、と焦る。
ただし、昨今では、「声をかけられるまで待っているなんて女の恥」とか「自己主張のできない女は二流」というムードが主流だから、しかたなくそうしている傾向も強い。
だから、「男なんて」と突っ張ったり、相手をとことん皮肉って、バカにした口調でしか話さない。
人付き合いが怖い男の子も女の子も見栄を張っている。
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このシナリオどおりにやれない女の子は、なんて自分はダメなのだと考え、じっと家に閉じこもり悩むことになる。
ある15歳の少女は、ビールを立て続けに二杯飲み、元気をつけたところで、青年のところへツカツカと歩み寄り、いきなり彼の股座に手を当て、「ねえ、あんた男なんでしょ。ちょっと、やってみない?」と言ったそうだ。
「男を誘うぐらいのガッツがないと、現代女性とはいえない」という話を聞いて、この新しい役割のモデルを、彼女はちょっと真似てみただけなのだ。
こんなふうに露骨に誘われても、平然としていられるほど成熟した男の子やセルフ・コントロールのある少年は、まずいないだろう。
まさか、そんなときには顔を赤らめながらクスクス笑い、トイレに駆け込めばいいなどと、男の子に向かって言うわけにもいかない。
伝統的な境界線を踏み越えて、女の子がますます男性的になり、自己主張を覚えるのに対して、男の子は、昔ながらのマッチョぶりしか発揮できず、あっさり肩透かしをくらってしまう。
そのため、マッチョ役がうまくやれるかどうかを、たえず気にし、拒否されるのが何より怖いピーターパン人間は、こういう場所からは一目散に逃げ出し、似た者同士で群れることになるが、これはちっとも不思議ではない。
そこで、男の子ばかりで暴走し、酒浸りになり、生意気な女たちやゲイっぽい男たちの悪口を言って鬱憤を晴らす。
自分たちの不安を共有しあうことで、そういう連中と距離を置こうとするのだ。
要するに、彼らは自虐トークで自分たちの傷ついた自我や怒りを発散させる以外に手がない。
いったい、なぜこんなことが起こっているのか。
性役割の葛藤で、子どもたちの心がこんなにもひどいものになってしまった原因は何なのか。
臨床的な研究によれば、女の子は伝統的な男性の縄張りを侵すようなシナリオをもらったが、男の子は伝統的な女性の縄張りに侵入するようなシナリオを何一つもらえないでいる。
だから、女の子が自己主張し、自立するのはすべてOKだが、男の子が受け身になり、何かに依存するのはOKではないということになる。
このアンバランスが、性役割の葛藤で悩む男の子たちを新たにつくりだしている。
これは両親から学んだものではない。
むしろ性の探求について、両親はどんなシナリオも持っていないというのが実情だ。
実はテレビこそセックスに無知な子どもたちを導く現代の教師なのである。