切れない人付き合いからの脱出

人付き合いが怖い状態から抜け出せました。

人付き合いは怖いという曲がった信念の治し方

人付き合いは怖いという曲がった信念の治し方としては、楽な自分で他人と接することである。

お腹が痛くなることが怖くて特急電車に乗れない、会社のプレゼンで声が震えることが怖い、厳しい取引先の人との会食で食事が喉を通らない、人前で字を書く時に手が震えて正しく字が書けないのではないかと怖い、他人の視線が怖い、ママ友との付き合いが疲れる、等。

人付き合いが怖いと感じる場面は多岐に渡る。

こうした人付き合いが怖い心理状態を医学的に社交不安障害や古くは、対人恐怖症と言ったりする。

人付き合いとふれあい

人との出会い・ふれあいを求めるとは、人間存在の原点に戻るということになる。

役割の世界に安住し、煩わしい人間関係からのがれられたことをよろこんでいるうちに、人間としての原点を見失うことになる。

そうすると人付き合いが怖い。

部長という役割に対して課長という役割が頭を下げているだけであることに気づかないと、本当の自分を見失ってしまう。

それゆえ役割のあるものは役割のないものの如く生きる瞬間をもたねばならぬ。

つまり、ふれあいの瞬間をもつのでなければならない。

魅力ある人物とは、そういう人間のことである。

役割を抜け出した自分を表現している人物のことである。

そういう人は人付き合いを楽しんでいる。

「役割とふれあい」についてまだいうことがある。

それは現実的に考えての話である。

現代は組織化の時代である。

各自が役割を果たしている限り、制度・機関は安定性がある。

そして各自は人付き合いのわずらわしさから解放されるから精神衛生はよい。

それはたしかだと思う。

しかし安定性と精神衛生だけで満足してはならない。

その組織が動かなければならぬ。

動くとは目標達成に向かって近づくことである。

たとえば会社という組織(役割の束)では、動くとは生産性向上のことになる。

さて、「役割の束」(組織)だけでは生産性向上の動きはでてこない。

各メンバー相互の心のふれあい、つまり良好な人付き合いがないと生産性は高まらない。

ホーソン工場の例がそれである。

周知のようにホーソン工場の実験では、物理的条件に恵まれたグループよりは、物理的条件には恵まれないが人に観察されているグループのほうが、生産性が高かったのである。

人に関心をもたれているという意識がやる気をおこさせたのである。

さらにこれを押しすすめて考えると、関心をもたれるどころか自分の心にふれてくれる人がいると、もっとやる気が出てくるということになる。

元気のでる人付き合いである。

日本的経営のなかにひそむ「なにわ節」がそれを示唆している。

つまりimpersonalな役割関係のなかに、ふれあいといったようなpersonalな要素を導入してはじめて、組織の安定性と生産性という二つの柱が立つのである。

それゆえにこそ、近年、職場ぐるみでグループ・エンカウンターや感受性訓練、あるいは組織開発の研修などが企業教育の担当者から関心をもたれているのだと思う。

しかし心のふれあいだけでは詩人の世界である。

私たちは現実の世界に住んでいる。

そこで役割の世界(義務と権限の世界)とふれあいの世界(義務と権限を越えた世界)の共存を考えねばならない。

心のふれあいだけで世の中が渉れるわけでもなく、かといって役割関係だけで心が満ちたりるわけでもない。

高度な役割関係だけでは人付き合いが怖くなる。

役割を果たしながら役割を越え、役割を越えながら役割を果たさなければならない。

 

「みっともないところを人に見せるべきではない」という歪んだ信念

人と親交を結ぶことを避けている人のなかには、自分の私生活を見られることは恥ずかしいことである、とのビリーフをもっている人がいる。

当たらずさわらずのつきあいがそれである。

もちろん当たらずさわらずのほうが相互の利益になることもある。

しかし、すべての人にこのスタイルで接するのはワンパターンすぎる。

なぜ、自分の私的な面を人に見せるべきではないと思うのか。

自分の実体を知られると人になめられると思うからである。

人に負けたくないからである。

そして、そこで意地を張ってありのままの自分を隠し続けると、人付き合いが怖くなる。

たしかに正直に自分を開いたために人にバカにされることもあろう。

しかし、バカにされないどころか、敬愛の念を受けることもある。

もっとも、バカにされるか敬愛の念を受けるかは、予測の立たないことが多い。

それゆえ未知に対する不安がある。

しかし若干のリスクをおかす勇気をもたねばならぬ。

虎穴に入らずんば虎児を得ずである。

みっともないところを見せたために、かえって人に敬愛されることもある。

必ず人にバカにされるわけではない。

人付き合いは怖いという信念から脱却するのには、愛嬌も必要なのだ。

 

人付き合いと愛嬌

たとえば私はこんなことがあった。

ある地方都市に研修に出掛けた。

夜は、初めての土地が珍しいので駅前まで散歩した。

そして駅前の飲み屋に入った。

ところが注文しないものがどんどん私の前に運ばれてくるではないか。

私は「これがいわゆるぼられる店か」と気づいた。

テーブルに座って五分くらい経ってからであった。

すぐ私は店を出た。

しかし時すでに遅く、かなりの金をとられた。

一人旅だから、私はこの話を語る相手もいない。

さて翌朝、いつものように研修担当者が公用車で迎えに来た。

空港で私を出迎えてから終始私の世話をしてくれている彼は、今朝が三日目だというのに、威儀を正して私に対応している。

いっこうに態度にくずれが出ない。石部金吉そのものであった。

ところが私が昨夜の話をするや、「先生も酒好きですか。飲み屋になんか行かないと思っていたので、今まで遠慮していたんです。先生、あの駅前の飲み屋はがらが悪いので有名なんですよ。

今夜は私の行きつけの店に案内しますよ」と急にいきいきしてきたのである。

講師と研修担当者という役割関係の人付き合いのなかに、人間感情が入ってきたのである。

私たちの仲は、車が会場につくまでにはすっかり打ち解けたものになっていた。

今度の講師は飲み屋でぼられたそうだ、という噂は、その日の午前中に広がったらしい。

昼食時に入れ替わり立ち代わり人が私に親しげに語ってくるのである。

たぶんこの連中もかつてぼられたことがあるんだろうなあ、と私も親近感をおぼえた。

先生がぼられたまま帰京するんじゃあまずい、我々の町に対する悪い印象を消してもらわんことには・・・と、その夜は私のためにスタッフがコンパを開いてくれた。

楽しい研修であった。

楽な人付き合いである。

その場合、こんど来た講師は一杯飲み屋に入るような品性下劣な奴らしいぞ、という噂が流れる可能性もあると思う。

そうなった場合には、「まあ、そう思う奴は思え」と居直る手もある。

しかし私は居直る覚悟で語ったわけではない。

例の石部金吉に私の嫌な体験を聞いてもらわないことにはこれから人付き合いを構築していく上で精神衛生が保てなかったまでである。

そのあとのことは考えなかった。

もしバカにされたらどうするか。

甘受すればよい。

そして自分は今までどおり人生の役割を果たし続ければよいのである。

そして自分のクリエートした人生の意味に生きればよい。

さらにまた、そんな噂が永遠に続くものではないと知ればよい。

もし永遠に続きそうなら、よほど自分は人に関心をもたれている著名人なのだとよろこぶとよい。

 

見方を変えると人付き合いが怖いという信念も正常化される。

みっともない自分を人に開くことが、なぜ人の敬愛を得ることになるか。

それは世の中の九十九パーセントの人たちに劣等感があるからである。

劣等感があるのでこれを克服しようとして引き下げの心理が働く。

いわゆるけちをつける心理である。

たとえば、学歴の高い女房に劣等感のある亭主が「お前は大学を出ているくせにメシひとつ満足に炊けないじゃないか」というのがそれである。

相手を引き下げることによって、自分の劣等感を消そうとするのである。

 

自分の弱点をさらけ出すと楽になる

ところが自分の劣等感を消そうとすると人付き合いが怖くなる。

ところが相手が自分の弱点をさらけ出すと、「なるほど、相手もふつうの人間なんだ」と気が楽になる。

競争して勝とうという気持ちにはならない。

わが友よ、という親密さが湧いてくる。

逆に自分の弱点を見せまいとすると人付き合いは怖いものといった曲がった信念をつくってしまう。

私は永年、教師のカウンセリングを担当しているが、教師の子女には意外に問題児が多い。

それというのも親に非のうちどころがないので、子どもたちは親に親近感を持ちえないのである。

こういう教師の特徴は自分自身が相談に来ないで、配偶者に相談に行かせることである。

人付き合いは怖いと思っている人はプライドが高い。

私が呼び出しをかけてもしぶっている。

自分のみっともないところを人に知られたくないらしいのである。

ある教師は家出していた息子が帰って来たので泣いた。

息子は「なんだ。うちの親父もただの人間じゃないか」と初めて親父の実体を知った。

魅力的な人付き合いの構築である。

親父は息子になめられるどころか、いいところのある親父として息子に好かれるようになった。

心理的距離感を遠くにする

よくヤマアラシのジレンマという。

他人と近づきすぎて傷ついてしまうということだ。

これが、心理上で起こっている。

例えば、電車に乗って席に座る時、両側に他人が座っているとする。

物理的距離は近いがまったく知らない人だから緊張はしない。

これが心理的距離が離れている状態である。

しかし距離は離れているが怖い上司が同じ車両に乗っているとする。

緊張状態にある。

これは心理的距離が近い状態である。

相手との関係がピンと糸で張った状態である。

安全基地という他人との安心を見つける

会社の仲の良い同僚と昼ご飯を一緒に食べるとする。

これはリラックスして何の問題もなくご飯を食べられる。

しかし、怖い上司と一緒に会食をするとする。

すると、緊張してご飯が喉を通らなくなる。

人付き合いが怖い人は、気の弱い緊張症の人と付き合うと良いかもしれない。

スピーチで緊張して声が震えてしまうような人である。

この人も声が震えているから自分も振るえていいんだと思える。

このような人を安全基地という。

この安全基地になり得る人がそばにいる人は人付き合いの怖さを乗り越えるチャンスである。

 

人付き合いは怖いという曲がった信念が解消された後はどんな感じになるか

人付き合いは怖いという曲がった信念が解消された後は、自分の二本の足で、しっかりと地面にそびえ立ち、その地面から生きる活力が湧いてくる。

そして、食べるものは味がしっかりとし、冬の朝の空気はどこまでも澄んで、吸う息は美味しく、雨の音は心地よく聞こえる。

他人と真に触れ合うことができ、触れ合うとエネルギーが湧いてくる。

また、人の痛みを知っているから人に優しくできる。

人付き合いは怖いという曲がった信念を治せた人のご褒美は、この人の痛みがわかるということである。