切れない人付き合いからの脱出

人付き合いが怖い状態から抜け出せました。

「こうすればうまくいく」とわかってもできない

健康を害して禁煙の必要性を痛感し、こうすればうまくいくという禁煙の方法がわかっても、どうしても禁煙できないという人が少なくありません。

ダイエットの必要性を強く感じ、甘いものを控えるべきとわかっていても、つい食べ過ぎてしまい、ダイエットできないというのもよくあることです。

英会話の必要性を感じ、毎朝英会話のCDを聴いていればうまく喋れるようになるとわかっていても、なかなか続かないという声もしばしば耳にします。

成人病の兆候があり、軽い運動を継続的にしていくことが必要だとわかっても、なかなか続けられないという人が多いものです。

例をあげればきりがありませんが、「こうすればうまくいく」ということがわかったからといって、実行できるとは限らないのです。

うまくいく方法がわかることと、それを実行することの間には大きな距離があります。

それをつなぐのがモチベーションです。

自己効力という概念の提唱者であるバンデューラは、「こうすればうまくいく」という期待が直接モチベーションにつながるわけではないと考え、期待を結果期待と効力期待に分けました。

結果期待とは、「こうすればうまくいく」という期待のことです。

こうすれば禁煙がうまくいくはず、こうすればダイエットに成功するだろう、こうすれば英会話ができるようになるはず、こうすればきっと成人病を防げるだろうなどといった期待。

それが結果期待に相当します。

このような期待があっても、必ずしもその行動を取るとはかぎりません。

そこで決め手となるのが効力期待です。

効力期待とは、自分はその行動を取ることができるという期待のことです。

いわば自分にはできるという自信のことです。

■参考記事

人付き合いは怖いという曲がった信念の治し方 - 切れない人付き合いからの脱出

資格試験に合格するためには毎朝1時間早く起きて勉強すればよいということはわかっても、「自分にはちょっと無理かなあ」と思う人はなかなかうまくいきませんが、「自分はきっとできる」と思う人は高いモチベーションをもって継続的に取り組めるため、合格する可能性が高まります。

どうすればよいかがわかっていても、それができないのは、結果期待はあっても効力期待がないからです。

バンデューラは、効力期待がモチベーションにとって重要だと考え、これを自己効力感と呼びました。

何らかの目標を達成するために必要な行動を取ることができるという自信が自己効力感です。

その自信がモチベーションを生み出し、目標達成行動を促します。

セロトニン神経が弱ると起こる症状

事件を起こさないまでも、予兆としての症状にはどのようなものがあるでしょう。

それは、うつ病の症状と酷似します。

それらの症状を、セロトニン神経の働きと対応づけてみましょう。

その1.

朝の寝起きが悪く、学校に行く気になれない。

腹痛や頭痛など不定な訴えがある。

これは、起きるとともにセロトニン神経が活動を開始し、覚醒を演出する機能を担っていることに対応します。

セロトニン神経が弱っていると、朝起きても順調な活動が起こらず、むしろエンストしそうな状態にあります。

それが、朝の体調をなかなかスタンバイの状態にしてくれないものと考えられます。

 

その2.

人付き合いするのが怖いと思い、他者とのコミュニケーションを拒絶して、閉じこもる傾向にある。

このことについては、セロトニン神経の発達障害である自閉症が関係している可能性があります。

 

その3.

姿勢が悪く、身体に芯が入っていない感じがする。

すぐに、しゃがみ込んでしまう。

セロトニン神経は抗重力筋に対して刺激効果があることがあります。

セロトニン神経が弱ってしまえば、このような症状が出て当然ということになります。

予兆としては、最も分かり易いものです。

 

その4.

痛みに対して我慢できず、大騒ぎしてしまう。

セロトニン神経は痛みを抑える働きがあるわけですが、それが十分に働かなくなった状態といえます。

 

その5.

ちょっとしたストレスで、周囲を混乱に陥れてしまう。

セロトニン神経は、不安や舞い上がる心を抑える働きをしますが、それができなくなると考えられます。

 

その6.

動物虐待。

ここまでくると、すでにセロトニン神経がかなり弱ってきているはずですから、要注意ということになります。

■参考記事

人付き合いは怖いという曲がった信念の治し方 - 切れない人付き合いからの脱出

このような症状が出る前提として、「自分の部屋(殻)に閉じこもる日常とゲーム漬けの生活」があります。

こういう生活形態をとり、これらのような症状が出てきたら、セロトニン神経が弱っていると考えてみましょう。

人付き合いにおける本当の正しさとは

ある若手ビジネスマンが、「私は、自分の考えが正しいと思うときは、上司に対しても、同僚に対しても強く主張し、つらぬくべきだと考えている。

安易な妥協は、職場をよくする道ではないと思うからだ。

ところが、そういう私を、周囲の人たちは横車を押すとか協調性がないとかいって、上司まで私を敬遠している。

私の態度がまちがっているのだろうか」といっていた。

彼の考え方は、たしかに抽象論としては正しい。

しかし、正しいとは誰が決定するのかということを考えてみなければならない。

世の中には、自分では正しいと思うことでも、はたからみれば、必ずしも正しいとはいえないことが少なくない。

ものごとには真理らしいものはいくつもあるが、どれがほんとうの真理であるかは、なかなかわかるものではない。

若いうちは、とかく、<正か、さもなければ邪><善か、さもなければ悪>というように、二者択一的にいずれか一方に決定づけようとする傾向があるが、組織は、そのような単純な決定論でできあがっているものではない。

また、正しいとか正しくないということも弾力性をもったもので、ときと場所と相手によって変化するもので、絶対不変なものではない。

正しさと正しくないという葛藤で人付き合いの重さを左右する。

■参考記事

人付き合いは怖いという曲がった信念の治し方 - 切れない人付き合いからの脱出

自分の考えが正しいとして押し通そうとすることは、ものごとを考える場合、自分の先入観からある方向を決めてかかり、それに固執したり、また、問題の不都合な面だけを取り上げ、全体的な面から考えてみようとしないからである。

意見や考え方の相違が生じたならば、たとえ自分の考えが正しいと思っても、まず固執を捨てて、虚心坦懐にまったく別な角度から問題を検討してみる習慣を身につけなければならない。

人付き合いは怖いという曲がった信念の治し方

人付き合いは怖いという曲がった信念の治し方としては、楽な自分で他人と接することである。

お腹が痛くなることが怖くて特急電車に乗れない、会社のプレゼンで声が震えることが怖い、厳しい取引先の人との会食で食事が喉を通らない、人前で字を書く時に手が震えて正しく字が書けないのではないかと怖い、他人の視線が怖い、ママ友との付き合いが疲れる、等。

人付き合いが怖いと感じる場面は多岐に渡る。

こうした人付き合いが怖い心理状態を医学的に社交不安障害や古くは、対人恐怖症と言ったりする。

人付き合いとふれあい

人との出会い・ふれあいを求めるとは、人間存在の原点に戻るということになる。

役割の世界に安住し、煩わしい人間関係からのがれられたことをよろこんでいるうちに、人間としての原点を見失うことになる。

そうすると人付き合いが怖い。

部長という役割に対して課長という役割が頭を下げているだけであることに気づかないと、本当の自分を見失ってしまう。

それゆえ役割のあるものは役割のないものの如く生きる瞬間をもたねばならぬ。

つまり、ふれあいの瞬間をもつのでなければならない。

魅力ある人物とは、そういう人間のことである。

役割を抜け出した自分を表現している人物のことである。

そういう人は人付き合いを楽しんでいる。

「役割とふれあい」についてまだいうことがある。

それは現実的に考えての話である。

現代は組織化の時代である。

各自が役割を果たしている限り、制度・機関は安定性がある。

そして各自は人付き合いのわずらわしさから解放されるから精神衛生はよい。

それはたしかだと思う。

しかし安定性と精神衛生だけで満足してはならない。

その組織が動かなければならぬ。

動くとは目標達成に向かって近づくことである。

たとえば会社という組織(役割の束)では、動くとは生産性向上のことになる。

さて、「役割の束」(組織)だけでは生産性向上の動きはでてこない。

各メンバー相互の心のふれあい、つまり良好な人付き合いがないと生産性は高まらない。

ホーソン工場の例がそれである。

周知のようにホーソン工場の実験では、物理的条件に恵まれたグループよりは、物理的条件には恵まれないが人に観察されているグループのほうが、生産性が高かったのである。

人に関心をもたれているという意識がやる気をおこさせたのである。

さらにこれを押しすすめて考えると、関心をもたれるどころか自分の心にふれてくれる人がいると、もっとやる気が出てくるということになる。

元気のでる人付き合いである。

日本的経営のなかにひそむ「なにわ節」がそれを示唆している。

つまりimpersonalな役割関係のなかに、ふれあいといったようなpersonalな要素を導入してはじめて、組織の安定性と生産性という二つの柱が立つのである。

それゆえにこそ、近年、職場ぐるみでグループ・エンカウンターや感受性訓練、あるいは組織開発の研修などが企業教育の担当者から関心をもたれているのだと思う。

しかし心のふれあいだけでは詩人の世界である。

私たちは現実の世界に住んでいる。

そこで役割の世界(義務と権限の世界)とふれあいの世界(義務と権限を越えた世界)の共存を考えねばならない。

心のふれあいだけで世の中が渉れるわけでもなく、かといって役割関係だけで心が満ちたりるわけでもない。

高度な役割関係だけでは人付き合いが怖くなる。

役割を果たしながら役割を越え、役割を越えながら役割を果たさなければならない。

 

「みっともないところを人に見せるべきではない」という歪んだ信念

人と親交を結ぶことを避けている人のなかには、自分の私生活を見られることは恥ずかしいことである、とのビリーフをもっている人がいる。

当たらずさわらずのつきあいがそれである。

もちろん当たらずさわらずのほうが相互の利益になることもある。

しかし、すべての人にこのスタイルで接するのはワンパターンすぎる。

なぜ、自分の私的な面を人に見せるべきではないと思うのか。

自分の実体を知られると人になめられると思うからである。

人に負けたくないからである。

そして、そこで意地を張ってありのままの自分を隠し続けると、人付き合いが怖くなる。

たしかに正直に自分を開いたために人にバカにされることもあろう。

しかし、バカにされないどころか、敬愛の念を受けることもある。

もっとも、バカにされるか敬愛の念を受けるかは、予測の立たないことが多い。

それゆえ未知に対する不安がある。

しかし若干のリスクをおかす勇気をもたねばならぬ。

虎穴に入らずんば虎児を得ずである。

みっともないところを見せたために、かえって人に敬愛されることもある。

必ず人にバカにされるわけではない。

人付き合いは怖いという信念から脱却するのには、愛嬌も必要なのだ。

 

人付き合いと愛嬌

たとえば私はこんなことがあった。

ある地方都市に研修に出掛けた。

夜は、初めての土地が珍しいので駅前まで散歩した。

そして駅前の飲み屋に入った。

ところが注文しないものがどんどん私の前に運ばれてくるではないか。

私は「これがいわゆるぼられる店か」と気づいた。

テーブルに座って五分くらい経ってからであった。

すぐ私は店を出た。

しかし時すでに遅く、かなりの金をとられた。

一人旅だから、私はこの話を語る相手もいない。

さて翌朝、いつものように研修担当者が公用車で迎えに来た。

空港で私を出迎えてから終始私の世話をしてくれている彼は、今朝が三日目だというのに、威儀を正して私に対応している。

いっこうに態度にくずれが出ない。石部金吉そのものであった。

ところが私が昨夜の話をするや、「先生も酒好きですか。飲み屋になんか行かないと思っていたので、今まで遠慮していたんです。先生、あの駅前の飲み屋はがらが悪いので有名なんですよ。

今夜は私の行きつけの店に案内しますよ」と急にいきいきしてきたのである。

講師と研修担当者という役割関係の人付き合いのなかに、人間感情が入ってきたのである。

私たちの仲は、車が会場につくまでにはすっかり打ち解けたものになっていた。

今度の講師は飲み屋でぼられたそうだ、という噂は、その日の午前中に広がったらしい。

昼食時に入れ替わり立ち代わり人が私に親しげに語ってくるのである。

たぶんこの連中もかつてぼられたことがあるんだろうなあ、と私も親近感をおぼえた。

先生がぼられたまま帰京するんじゃあまずい、我々の町に対する悪い印象を消してもらわんことには・・・と、その夜は私のためにスタッフがコンパを開いてくれた。

楽しい研修であった。

楽な人付き合いである。

その場合、こんど来た講師は一杯飲み屋に入るような品性下劣な奴らしいぞ、という噂が流れる可能性もあると思う。

そうなった場合には、「まあ、そう思う奴は思え」と居直る手もある。

しかし私は居直る覚悟で語ったわけではない。

例の石部金吉に私の嫌な体験を聞いてもらわないことにはこれから人付き合いを構築していく上で精神衛生が保てなかったまでである。

そのあとのことは考えなかった。

もしバカにされたらどうするか。

甘受すればよい。

そして自分は今までどおり人生の役割を果たし続ければよいのである。

そして自分のクリエートした人生の意味に生きればよい。

さらにまた、そんな噂が永遠に続くものではないと知ればよい。

もし永遠に続きそうなら、よほど自分は人に関心をもたれている著名人なのだとよろこぶとよい。

 

見方を変えると人付き合いが怖いという信念も正常化される。

みっともない自分を人に開くことが、なぜ人の敬愛を得ることになるか。

それは世の中の九十九パーセントの人たちに劣等感があるからである。

劣等感があるのでこれを克服しようとして引き下げの心理が働く。

いわゆるけちをつける心理である。

たとえば、学歴の高い女房に劣等感のある亭主が「お前は大学を出ているくせにメシひとつ満足に炊けないじゃないか」というのがそれである。

相手を引き下げることによって、自分の劣等感を消そうとするのである。

 

自分の弱点をさらけ出すと楽になる

ところが自分の劣等感を消そうとすると人付き合いが怖くなる。

ところが相手が自分の弱点をさらけ出すと、「なるほど、相手もふつうの人間なんだ」と気が楽になる。

競争して勝とうという気持ちにはならない。

わが友よ、という親密さが湧いてくる。

逆に自分の弱点を見せまいとすると人付き合いは怖いものといった曲がった信念をつくってしまう。

私は永年、教師のカウンセリングを担当しているが、教師の子女には意外に問題児が多い。

それというのも親に非のうちどころがないので、子どもたちは親に親近感を持ちえないのである。

こういう教師の特徴は自分自身が相談に来ないで、配偶者に相談に行かせることである。

人付き合いは怖いと思っている人はプライドが高い。

私が呼び出しをかけてもしぶっている。

自分のみっともないところを人に知られたくないらしいのである。

ある教師は家出していた息子が帰って来たので泣いた。

息子は「なんだ。うちの親父もただの人間じゃないか」と初めて親父の実体を知った。

魅力的な人付き合いの構築である。

親父は息子になめられるどころか、いいところのある親父として息子に好かれるようになった。

心理的距離感を遠くにする

よくヤマアラシのジレンマという。

他人と近づきすぎて傷ついてしまうということだ。

これが、心理上で起こっている。

例えば、電車に乗って席に座る時、両側に他人が座っているとする。

物理的距離は近いがまったく知らない人だから緊張はしない。

これが心理的距離が離れている状態である。

しかし距離は離れているが怖い上司が同じ車両に乗っているとする。

緊張状態にある。

これは心理的距離が近い状態である。

相手との関係がピンと糸で張った状態である。

安全基地という他人との安心を見つける

会社の仲の良い同僚と昼ご飯を一緒に食べるとする。

これはリラックスして何の問題もなくご飯を食べられる。

しかし、怖い上司と一緒に会食をするとする。

すると、緊張してご飯が喉を通らなくなる。

人付き合いが怖い人は、気の弱い緊張症の人と付き合うと良いかもしれない。

スピーチで緊張して声が震えてしまうような人である。

この人も声が震えているから自分も振るえていいんだと思える。

このような人を安全基地という。

この安全基地になり得る人がそばにいる人は人付き合いの怖さを乗り越えるチャンスである。

 

人付き合いは怖いという曲がった信念が解消された後はどんな感じになるか

人付き合いは怖いという曲がった信念が解消された後は、自分の二本の足で、しっかりと地面にそびえ立ち、その地面から生きる活力が湧いてくる。

そして、食べるものは味がしっかりとし、冬の朝の空気はどこまでも澄んで、吸う息は美味しく、雨の音は心地よく聞こえる。

他人と真に触れ合うことができ、触れ合うとエネルギーが湧いてくる。

また、人の痛みを知っているから人に優しくできる。

人付き合いは怖いという曲がった信念を治せた人のご褒美は、この人の痛みがわかるということである。

 

背中側の横隔膜

リラックス呼吸のポイントを一つだけあげるならば、腹筋を絞るときに、肛門に力を入れると、下腹部中心の呼気ができます。

呼気の最後に肛門をギューッと収縮させると、次の呼気は下腹部を中心に膨らませる方向になります。

その理由は、私たち人間は横隔膜を腹側と背中側で別々にコントロールできるようにできているからです。

といっても、自律機能を意識的に調整するには、それなりの訓練が必要です。

肛門を締める努力をすれば、同時に、腸腰筋が収縮します。

この腸腰筋は背中側の横隔膜に結合していますから、呼気の終わりに、背中側の横隔膜を引っ張ることになります。

筋肉は引っ張られると、より大きな力が出ますので、次の呼気では、背中側の横隔膜が強く収縮し、その動きは背中側をまわって、下腹部を膨らませるようになります。

これは「丹田に気を溜める」という丹田呼吸法のコツに通じます。

呼吸法に慣れてきたら、試してみてよいかもしれません。

 

丹田呼吸法を教える調和道協会副会長の鈴木光弥氏の完全呼吸法を拝見させてもらったことがあります。

呼吸法の詳細がよく分かるようにと、上半身裸で実施してもらいました。

鈴木氏は上虚下実の腹ができあがっていました。

 

目を見張ったのは、完全呼吸法では、腹筋も横隔膜も自由自在に意識的にコントロールできるということです。

ピアノのうまい人の演奏を見ると、よくまあそこまで指が動かせるものだと感心させられます。

■参考記事

人付き合いは怖いという曲がった信念の治し方 - 切れない人付き合いからの脱出 (hatenablog.com)

鈴木氏の場合には、横隔膜と腹筋とおそらくは腸腰筋を自由自在に操れるというところまで訓練されているという印象でした。

声楽家の呼吸法訓練でも、横隔膜の動きを意識的にコントロールすることが書かれてあります。

リラックス呼吸には人付き合いが怖い人にも効果を表す。

訓練しだいでは、自律機能を自由に制御できるようになる、ということです。

丹田呼吸法の究極は、上虚下実の腹にあると言えますが、間違えないで欲しいのは、呼吸法の目的は、お腹の形を作ることではなく、心と身体を整えることです。

責任転嫁をする上司、なぜあなたはチャンスとしないのか?

Mという青年がきて、「私の上司は、いやな問題になると、『いま忙しいので、君頼むよ』といって、私たち部下に押し付けてしまうのです。

そして、それがうまくいかないと、『あいつはダメだ』というのです」とこぼしていた。

他社や他部門とのやっかいな交渉や不始末の謝罪など、いやな問題が起こると、本来なら自ら当たるべきものを、部下に押し付けてしまう上司は、意外に多い。

いやな問題は、部下にとってもいやなものであり、その上司に対し、不満をいだくものである。

筋道からいえば、断わっても差し支えないのであるが、断れば、上司からにらまれるので、しぶしぶ出かけていく。

自信もなく、しぶしぶ出かけるので失敗するということになりやすい。

このような場合は、どうせやるなら快くやろうと思い返すことである。

自分の力を試す絶好のチャンスであり、認められる最大の機会だと思い返せば、問題に取り組む意気込みもおのずとちがってくる。

そういう意気込みをもって当たれば、まず失敗は少ない。

一つ成功すれば自信がつき、どんな難問にも恐れないでぶつかっていくことができるようになる。

自信とか実力は、そのような経験を積むことによって養われていくので、むしろ、こういう上司には感謝すべきである。

本来上司が当たるべき難問の解決に成功すれば、あなたは上司に貸しをつくることになり、上司に対して有利な立場に立つことになるのである。

また、上司の責任を転嫁され、不利な立場に追い込まれて悩んでいるビジネスマンも少なくない。

もし、あなたの上司が、自分の手落ちを、あなたの責任として転嫁してきた場合に、その上司なり、会社の幹部なりが、明らかに責任転嫁であることを承知しており、あなた自身にとっても不利になることもなく、会社にとっても格別どうということもないようなことがらであるならば、黙認しておいてもよい。

場合によっては、そのため、かえって高く評価されることもある。

しかし、それが、あなたのほんとうの責任とみなされ、不利に扱われるような場合は、けっして黙認してはならない。

どこまでも事実を述べ、自分に責任のないことをはっきりさせなければならない。

この場合は、誰に責任があるかを指摘する必要はなく、ただ、自分に責任がないことだけを立証すればよいのである。

上司に気がねして責任をかぶることは、自分自身が犠牲になるばかりでなく、会社のためにもマイナスとなる。

また、長い目でみれば、上司にとってもいい結果を生むとは思えない。

もし、そのために、上司から憎まれるようであったなら、他の部門に配置転換をしてもらえばよい。

責任をかぶっても、不利になることに変わりはない。

最近の若いビジネスマンは、義理人情を観念的には割り切っているが、依然として、行動の上では人付き合いで抜けきっていない部分がある。

だから、つい、断り切れずに、上司の責任を引き受けて、自分を犠牲にするビジネスマンもいる。

■参考記事

人付き合いは怖いという曲がった信念の治し方 - 切れない人付き合いからの脱出 (hatenablog.com)

しかし、安っぽい義理人情にとらわれて上司の責任転嫁を黙認してはならない。

ただ、この場合、自分にも責任がなかったかを反省し、責任があれば、その場合はいさぎよく責任を負わなければならないのはいうまでもない。